ラ、ミ、レのシャープ。
 人の会話の音と、足音と、ドアの閉じる音。
意識せずに、意識したくもないのに、頭の中に音階が浮かび上がる。絶対音感というものだ。
 音楽に携わる人間なら、自分を羨望の眼差しで見るのだろうか。
ただ自分に実力がないのを棚に上げて、絶対音感を持つ人間には勝てないなどと言いながら。
しかし、絶対音感を持つ身として、一つ言わせてもらおう。
 こんなもの、ないほうがマシだ。
別に自分は音楽関係の職業に就くつもりはないし、そもそも音楽なんて殆ど聴かない。
ただ、毎日普通に会社に向かい、普通に営業をして回り、普通に帰る。
それだけの生活だ。
今も、こうしてかばんを持って炎天下の下で歩いている。
 不協和音に満ちた世界の中を。
 
 絶対音感。
この能力は、恐らくは自分の両親がクラシックの楽団に所属していて、いつも家で音楽を奏でていたから自然と身についてしまったのだろう。
なんとも迷惑な話だ。
 この能力を手にして、分かったことといえば簡単なことでしかない。
 この世界は、結局不協和音しか奏でられないということ。
みんなで手を取り合って、なんてよくテレビでも流れるし、そういう考えをしている人間だってたくさんいる。
だが、そんな彼らは、実際には音一つですら、お互いに調和を保つことができない。
絶望的なまでに、この世界は不調和で満ちているのだ。
くだらない。
 狂いそうなまでに、常に音に囲まれて。不協和音に囲まれて。
自分の周りの不快な音に、苛立ちを隠すことができない。
でも、そんな世界をどんなに忌み嫌おうとも。自分自身も、他との間に不協和音を奏でているということに、逃げ道を失う。
 結局、嫌悪の対象である世界を、自分自身がその一員となって構成しているのだ。
 
 一人で住むアパートへと戻る。
就職先も、実家からは程遠い場所を選び、両親の反対を押し切って無理矢理一人暮らしを始めた。
簡単に言うと、親との会話も、何もかもの音が嫌になって、逃げるように親元を離れただけだ。
 喉が渇いて冷蔵庫を開く。
その音でさえ、冷蔵庫から出る振動音と微妙な不協和音を作り出していた。
 クラシックにおける和音というのはジャズやテクノのそれと比べて非常に厳格だ。
ジャズやテクノで日常的に使われる和音ですら、クラシックからすれば不協和音に過ぎない。
そして、そのクラシックに慣れてしまった自分の耳は、まさに不協和音につつまれていることになる。
 あまりにも耳につく雑音に、冷蔵庫のコンセントを引き抜く。
薄い壁からもれる隣室の生活雑音ですら、苛立ちの元でしかない。
思い切り壁を叩きつけて、黙らせる。
 もしも自分の耳にスイッチがあれば、こういうときにオフにすれば幸せなのに。
隣室の男が扉を叩きながら苛立った声で何か叫んでいる。
くだらない。
くだらない。
くだらない。
 それならばいっそ、音を破壊してしまいたいと思った。
それまで感じていた衝動を、押さえつけていた衝動を。
 
 台所までゆっくりと歩いて包丁をつかむ。
その頃には気分は多少落ち着いていた。冷静になっていた。
「うるさい!」
 いつまでも扉を叩いて騒ぐ男に向けて一喝する。
一瞬扉の向こうから静寂が届いたが、その直後、それまでよりも更にやかましくまくし立てた。
 ノイズ。
そしてそのノイズに、自分の絶叫を上乗せする。
「あああああああああああああああああああああああああああっ!」
 包丁を右手に持って。
狂気を脳に抱えて。
だが、冷静に叫んだ。
 これが最後だから。
 
 叫びながら、右手に持った包丁を自分の耳に当てる。
左手で耳を引っ張り、ゆっくりと刃を当てる。
叫ぶ。
耳を引っ張る力を強めながら、右手を肩に当たる勢いで引きおろした。
叫ぶ。
左手に持った左耳を投げ捨て、包丁を持ち替える。
そして、右耳も同様に、切り捨てる。
叫ぶ。
でも、その叫び声は酷く嫌な残響だけが響き、それ以外の音はまったく耳に届かなかった。
 感じるのは、振動だけ。
 
 包丁すらも投げ捨て、いつまでも振動を続ける扉を開いた。
扉を開くと、金髪の目つきの悪い男が、自分を見て表情が固まった。
もうほとんど音は聞き取れないが、こうして目の前の男が声を発しないのが気持ち良かった。
「静かにしてもらえるかな」
 多分、そう言ったと思う。
外部の音を拾うだけの聴覚を失った耳では、自分の体内に響く音しか聞き取ることが出来ないから。
 
 それでも、と心の中でつぶやいた。
結局、完全に音を断ち切るには命を捨てなければならないらしい。
だが、自分はそこまでするだけの勇気が無い。
中途半端に響く自分の声と、自分の体に伝わる振動。
だが、その音は不思議と心地よかった。
 


-Postscript-
たぶんやりすぎた。